様式ではなく、内実への誠実さ 超★超歌劇「幕末Rock」

「歌劇」と書いて「ミュージカル」と読ませるのが公式の呼称ですが、私は「なるほどこれは歌劇であってミュージカルではないね」と思いながら見ていました。ロックなのだし。

厳密な意味での「ミュージカル化」とは「宝塚化」「歌舞伎化」に近い、既に出来上がっている一定の様式に従って素材(原作)を作り替える作業で、一方「2.5次元化」というのは原作を舞台化しようとなった時に、内容に相応しい手法をその都度選択していく作業である。そう考えればいいのではないか。

歌・踊りつきにするか、ストレートプレイにするか、歌なら曲調や唄い方はどうするか。それぞれの原作に最も相応しいやり方を探し、選んで作る。幕末Rockはロックバンドを組むお話であり、作品内で披露されるのはロック(ロック調のアニソン)とアイドル風のポップスなので、ミュージカルの唄い方よりロックやポップスの唄い方のほうが相応しい訳ですね*1。そういう発想で作られていると考えれば、いまいちピンと来てなかった「2.5次元は演劇というよりアニメや漫画の一コンテンツ」という言い方が腑に落ちます。舞台を作るにあたっての発想の順番、優先順位の違いを表現しているのだと考えれば。

2.5次元ミュージカルにとってミュージカルとは手段であって目的ではない。既存の演劇の枠も手法もすべてが手段に過ぎない。ミュージカルなり何なり、既存の様式自体を愛好する人を戸惑わせ、2.5次元のファンにすら正体を掴ませないのは、その為ではないでしょうか。ミュージカルでもなければ、演劇ですらないのかもしれない。「この原作を舞台化するのに最適な方法は」という視点で、必要なやり方を作品ごとに選択する。その、身もふたもない軽やかさ・ラディカルさが2.5次元の身上で、「弱虫ペダル」の舞台を手がけた西田シャトナーさんの、「原作の再現ではなく、原作の目指したビジョンを舞台で出現させる」という言葉に、2.5次元の本質があるのではないか。逆から言うと、2.5次元とは様式が先行していないこと、です。


だから、ミュージカルとしてどうか、演劇としてどうか、といった既存の基準ではなく、作品ごとに「この原作をこのアプローチで舞台化したのは正解だったか」という観点で見るものなのかな、と。テニミュしかり、ペダステしかり、2.5次元としての成功とは、内容と形式の一致を指すのではないでしょうか。とはいえ、「PLUTO」の舞台とかとはやっぱり違うわけで、作品ごとにアプローチを変えるとはいっても「2.5次元的」に該当するか否かのなんらかの線引き、要素はあるのかなと、思ったりもするのですが……?

そういう意味で、私は土方さんと桂先生がロックしてていいな、と思いました。あと慶喜さま超強かった。

*1:舞台上で披露される曲や歌詞はストーリーと特に関係はなく、ゆえに再演で曲が差し代わっても支障がない

身体で見せる、身体性をつなぐ「ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン 青学vs不動峰」

エンディング

テニミュには本編・カーテンコールの次にエンディング曲というものがあります。カーテンコールの後なので、さていま目の前にいるのは役(キャラ)と素の役者さんどちらなのだろう、といつもちょっと不思議に思いながら、きゃっきゃっと見ているのですが、2ndシーズン後半はキャラクターとしてのコール&レスポンスが入ったので、(やや役から逸脱する部分もあるけれど)基本的には役なのだろうと思ってみていました。ところが今回の公演では、コールはあるもののキャラクター性は薄めで、どうやらEDは役から離れていいらしい。何故そう思ったかというと、本編中とガラっと違う踊りかたをしている人が多いからです。


ミュージカルですから、歌も踊りも芝居の一環、役者本人が歌い踊るではなく、「この役だったらこういう感じで歌い、こう踊る(動く)だろう」というものが要求される。それが本来の筋ですが、通常の芝居の場の立ち居振る舞いは出来ても、歌とダンスまで演技性を徹底させるのはなかなか難しい。
もともと2.5次元舞台は“原作通り”が身上です。原作の漫画を参照する以上、このセリフをいう時の表情はこう、立ち姿はこう、というのがあり、役者に渡される脚本に文字として書いていなくても、立ち居振る舞いまで具体的な指示があるに等しい。コマとコマの間の動きや原作に描写されてない部分の立ち居振る舞いがアニメ版をあればそちらを参照する人もいます。そこに歴代キャストの動き方の癖も蓄積され、「この役はこういう風に動く」という、いわば動作におけるキャラクター性・演技性が、なんとなくの型としてある。一方で、2ndシーズンを通して歌曲は高速化・緻密化の一途をたどり、ダンスにおける個々のキャラクター性・演技性はあまり前面に出ませんでした。
J-POPの流行と並走していたような高速化自体は、音楽的な、つまりミュージカルとしての独自性でもあったし、群舞としての迫力があり、大好きなのですが、果てしなく高速化出来る訳もなく。そろそろ人類が二時間の舞台としてこなせる限界だろう(見る方の目も追いつきません)、3rdがあったとしてどうするつもりのかなー、とは2nd終盤から気になっていた所でした。

今回の特徴

そしてはじまった3rdシーズン。過去の曲も使われているので特に青学関係は(2nd後半と比べて)ゆったりめですし、身体能力が高いのか、「各々の役としての動き」の蓄積を咀嚼するセンスのある人が多いのか、「キャラクターらしく動く」が芝居や試合のシーンはもちろんダンスにおいてもかなり徹底されている。
一方、初見時にぎょっとしたのですが、今回、誰がテニスの王子様なのか名指しするセリフがありません。他の青学メンバーに関しても、かろうじて名前と基本設定を紹介する曲はありますが、校内ランキング戦がカットされています。

つまり、今回の公演は
・キャラクターを描写するセリフやエピソードが削られ
・動作・ダンスにおけるキャラクター性・演技性が全般的に高く
・カーテンコールやEDでの立ち居振る舞いとの落差から、「本編中は演技として動いてる」ことが強調されるつくり
となっている。

どこまで意図か断言は出来ませんが、今回の公演では、脚本ではなく、動作を通したキャラクター描写がなされていた、と表現する事が出来るのではないか。少なくとも観客としてはそこからキャラクターを読み取るしかなかったし、一方でその為の材料はよく提示されていた。
中盤に2nd的な高速曲はいくつかありましたし、高速路線をまったく手放した訳ではないでしょうから、今後は楽曲における演技性と高速化の両立もしくはバランスの良い落としどころを探っていくのではという気がします。

キャストの交代にまつわること

先天的に個性が備わっていてそれが花開くのではなく、空っぽで生まれた所に経験や体験といった外部からの情報の流入・積み立てで出来上がっているのが(現在の)自分という認識なのではないでしょうか。

入れ替わりや仮面ネタの多用、無我の仕組みやネーミングなどから、人の個性というものを絶対視していないことが窺え、一方で事態を打開するのは「体が覚えている」という経験で培われた身体感覚です

http://d.hatena.ne.jp/chili_dog/20141005#p1


テニプリという世界を支える理屈を私はそう捉えているのですが、困ったことにこの思想とキャストの交代というのが馴染まない。代替わりという形で直線的に引き継ぐならまだしも、Wキャストなどで一つの役に対してキャストが同時に複数存在する事は、原作のテーマとズレてしまう。そこで2ndシーズンは基本的にシングルキャスト、かつ極力キャストの交代はなし。特に「体が覚えている」を理由に最終戦に勝利する主人公・リョーマを4年間一人の人間に託す事で原作のテーマとミュージカルのありかたを一致させたのですが、しかし今後も同じやり方が取れるとは限らない。

橋本治は「少年漫画には心理がない」と言いました。心理がないから少年漫画のキャラクターとは外見そのものでしかなく、ゆえに着替えない、決まった衣装しかないのだ、と。心理がないとまでは思いませんが、テニプリにおいてキャラの意識や内面といったものは重視されておらず、ゆえにキャラクターを体現するにあたり「外見上の、表面上の一致」が持つ意味は小さくない。そして自己同一性を裏打ちするのが身体感覚である以上、この場合の「外見・表面」に、容姿や体型のみならず「動き方」も含めようという発想は正しいように思われます。「動き方を似通わせる」事が、舞台上において「経験による身体感覚の蓄積」の(擬似的な)表現になりうるのではないか、という。

知ってるかい?

2.5次元の「外見がそっくり」という特徴を「動作レベル=身体表現としてのキャラクター性・演技性を高める」という方向でも押し進めること。それにより身体表現によるキャラクター描写の成立を目指すこと。そしてこの先にある可能性として「身体性を媒介にすることで、キャスト交代で生じるテニプリのテーマとの齟齬を擬似的に解決すること(齟齬を軽減すること)」。それが今回の不動峰公演で、私の目に映ったものです。


その意味において、古田一紀は芝居がうまい。役として動き、それは試合でもダンスでも維持され、しかも動きに感情が乗っている。楽しいのか、困っているのか、悔しがっているのか、動きを見れば分かる。リョーマらしく動きながら、それがただの段取りにならず、そこに感情がある。演技として、動作ひとつひとつにその都度感情が宿っている。

古田一紀の小さな体にはテニミュのこれまでとこれからの可能性が詰まっている。セリフやエピソード以外の形でそれは舞台上に表現されていて、この公演を見た私は知る事になる。なるほど彼はスーパールーキーであり、新しいテニスの王子様なのだと。

2.5次元という非近代「ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元」


矢内賢二(芸能史)、西田シャトナー(演出家)、小柳奈穂子(宝塚の演出家)が、それぞれの表現で、おそらく共通する事を述べています。

江戸時代の歌舞伎では、原則として戯曲よりも役者が、物語の合理性よりも個人の得意芸を引き立てることの方が優先された/文学的価値を犠牲にしても、芸能としてはその方がうんと魅力を増す/実はこれは「演劇鑑賞」とは筋合いの異なる、極めて伝統的な「芝居見物」の方法なのである。
「隈取のようなもの」矢内賢二

おそらくテニミュ以前の二、三十年の間、観客は映画や小説といったほかのジャンルとの違いが不明瞭になっていく時代へと進んでいた。小劇場にしても、「作家」の作品を観にいくという感覚になっていたんじゃないかと思います/(テニミュは)観客と俳優のつながりにおいてこれまでほぼ失われていた土壌をもう一度耕しなおした/いうなれば、演劇作品の文学的要素というのは必ずしもテキストのなかにはないということを体現できつつある
「コロスの響くロードレース」西田シャトナー

演劇はそもそも二・五次元なんじゃないかと思うんです。ギリシャ悲劇にもシェイクスピアにもまったくのオリジナルはない。みんなの知っている神話や伝説、あるいは民間伝承のような当時のサブカルチャーを舞台化している/オリジナルの演劇というのは二〇世紀以降の産物なんですよ 
「〈宝塚〉という世界線」 小柳奈穂子

それぞれバックボーンが違うので、背景となる知識、想定してるものに差異もあるでしょうが、引用した部分以外の内容も含めて、お三方の話を私の理解でまとめるとこんな感じでしょうか。「戯曲を基盤にした物語が、内面のある人物像が、リアリズムベースの個人の演技術によって演じられるのを鑑賞するというのは“近代演劇”の考えであって、絶対的なものではない」そして2.5次元は近代演劇とは異なるルールに則って出来ている、と。

2.5次元2.5次元というジャンルであって、“普通の*1演劇”とどう違うか、というところを考えないといけない。ジャンルが違うというのは、評価基準が、価値基準が違うということです。
役者の演技は拙いが、と添えながら2.5次元の特徴を述べている論考もあるのですが、違うと思っています。技術はジャンルに依存するもので(歌舞伎や宝塚で達者な人がそのまま近代演劇をする事は出来ません。ドラマや映画畑の俳優さんの吹き替えに違和感を覚えた人は少なくないでしょう)、2.5次元というジャンルの中で必要とされ、評価される技術というものがあり、2.5次元で活躍してる人たちはそれを備えている。その中での巧い下手はありますが。

私が2.5次元舞台を実際に見るようになってびっくりしたのはものすごくテクニカルな世界だった事です。
舞台を見ていても分かるし、ユリイカの役者さんのインタビューで具体的に言及されていますが、カツラやメイクと いった容姿レベルだけではなく、キャラクターの表情、仕草、体の動かし方、アニメ版の声優さんの喋り方まで参考して演技を作り込んでいる。内面を捉えていれば表面にあらわれるものが多少違っても、という発想ではなく、とにかく原作にある情報はすべて限り取り込み可能な限り再現を試みる。そこまでの作り込みが当然の基本で、さてそこからどうするか、というのが2.5次元の世界です。
そしておそらく戯曲・物語や人物の内面を重視する近代演劇の思想では、この表層の作り込みに価値を見いださない。演劇に必要な技術と認識しない。そういう、価値観、評価基準の違いがある、というだけです。




以前にこう述べた事があるのですが。

向こうから発せられる「これが自分の解釈です」という自意識=作為を一方的に受け止めるよりも、隠そうとして隠しきれないものがうっかり垣間みえてしまうほうが、垣間みえる瞬間に立ち会ってそれを感知するほうが、スリリングで、色っぽくて、私は楽しいのだ。

*1:現在一般的に『演劇』と言われるような

女子をdiscourageしない外国製クールジャパン「ベイマックス」


世間の受け止め方としては、女子の為のアナと雪の女王・男子の為のベイマックスという感じなのだと思いますが、「ベイマックス」も充分、女子に優しい。女子だけじゃなくていろんな人に優しい。
ヒーロー、戦隊、怪獣(着ぐるみ!)、ロボット…藤子不二雄ジブリの要素も入っていますね。“クールジャパン”的な要素が、日本の類似作では(理念上はともかく、具体的な描写レベルでは)なかなかまっとうに反映されない「多様性」という最近のディズニーやマーベルのテーマでくるんである。その結果、いろんな人に優しい素晴らしい作品になりました。


一芸に秀でた変わり者たちが、各々の得意技を活かす事で最強のチームになる…というお話は王道ですが、メンバーの全員が理工系の学生というのは珍しい。信じる気持ちがどうとか根性論・精神論ではなく、頭を使って工夫してピンチを打開していく展開も気持ちがいい。いわゆる「良心回路」的な設定は日本だと情緒的な解決法をとりがちで(煩悶の末に機能がストップするとか)、それも悪くないのですが、ベイマックスではあくまでそのシステムをロジカルに、しかしテーマにそってひねりのある使い方をしている所もとても好きです。
大学でヒロが他のメンバーからそれぞれの研究内容の紹介をうけるシーンがあるのですが、なんだかそこで泣きそうになってしまいました。大学は研究が好きな人が研究をするところです。大学入試に学力以外も見るという阿呆な方針を目にしたばかりだったので、生き生きと自分の研究の話をするみんなの姿がとても眩しく見えます。
「科学技術とは使いようによって善にも悪にもなる」という事も示されているのですが、全体としては大学、研究、知的活動といったものがきわめてポジティブに、憧れの対象として描かれています。本作を見て「自分も大学に行ってベイマックスを/作中に出てきた道具を作りたい」と思う子供は少なくないでしょう。そういえばヒック(「ヒックとドラゴン」)も自分で色々と道具を作る子ですし、トニー・スターク(「アイアンマン」)もエンジニアで、最近のアメリカのヒット作の主人公に理工系が目立つような?(ヒックの原作はイギリスですが)


モチーフが戦隊ものなので、メンバーには女子が二人います。理工系の大学で、しかもヒーロー活動をする。それは二重に「女の子らしくない」。でもそんな事は誰も気にしていません。女の癖にとか、女なんだからこれをしろ、そんな事するなとか、揶揄するようなことは言われません。
アナと雪の女王」のように直接女子の背中を押す物語ではありませんが、「ベイマックス」には女子をdiscourageするシーンがありません。ゴーゴーもハニー・レモンも、ただ自分の能力を活かして、自分のやりたい事を、研究仲間として、友人として、ヒーロー仲間として行っているだけなのです。女子間の物語であったアナ雪も好きですが、男子と混ざった上でのこのニュートラルな描写のありがたさと来たら!
特にハニー・レモンが良いです。彼女はゆるふわマイペースだが「ドジっ子ではない」。自分で作ったお洒落なカバン型の道具を携え、自分の専門分野の知識を活かしてきちんと活躍します。すらっとしたのっぽさんですが、そこもからかいの対象となる事はなく、本人も気にしていないのでしょう、更に厚底ハイヒールを履いて出歩いているシーンもあります。


小さい頃から戦隊や少年マンガやといった男子向けの物語が好きで、でもことあるごとに、仲間であると思っていた男性ファンから、作り手からも、「これは女子のものではない」と突っぱねられて来た全私が泣いた。幼少期から現在、そして未来まで、すべての年代の私が、ベイマックスに肯定されて泣いている。
宣伝にあった「心と体を守るために」は粉飾だと思うんだけど(ケアロボットなので本編では「体を〜」としか言ってないよね?あれは本編のセリフっぽく流れているけど、おそらく宣伝用の付け足し)、実際に心が癒されてしまったのでしかたがない…
男子向け作品を愛好する系女子である私は、女子周りの描写について特に感激しましたが、これはもちろん「多様性」を追求するとジェンダーの押しつけからも自由になるという例であって、男子キャラクターの描写も同様に多様性に満ちています。作中の誰も「○○らしさ」を押し付けられていない。
フレッドのあれはちょっとやりすぎというか巧みすぎだろ!?とも思うんだけど、あれは意味が分かる人にとってはもう魂が震えますよね…。彼に、オタクであること、ヒーロー好きであることを肯定されたらそら号泣するしかないわ。


ヴィランとの戦闘のカタルシスなどを求めると物足りなさもあるかと思いますが、そこはディズニーらしさでもあるし、子供向け作品でもあるし、あくまでヒロの喪失からの再生の物語が主眼であるという事でしょうね(飛行や戦闘シーンなど「アクション映画」としてはきわめてハイレベルでとてもワクワクします!)
「優しさで世界を救えるか?」というコピーも、「いま世界に必要なのは多様性=ヒーローに必要なのは寛容(自立と他者尊重の精神)」と捉えれば、理解でき…なくも…ない…。(以下ちょっとネタバレ)クライマックスが戦闘シーンではない、というのもその辺りを示しています。敵を倒すではなく、人を救うためのロケットパンチ、とても良かった。


ちょっとずつ改善されているとはいえ、日本のアニメや特撮などが、「(日本人の)ヘテロ男子向けジャンル」という出自にとらわれすぎて、なかなかそこから脱却出来ず、多様性への配慮が甘いのは本当に歯がゆくて。「ベイマックス」や「パシフィック・リム」のように、なんちゃって日本ではなく、日本作品の独自性を咀嚼し、かつ多様性に配慮した作品が海外で作られるのなら、国内作品では疎外される身としては、我慢する事なくそっち愛好してりゃいいや、という気持ちになってしまいます(オタク業界が特に差別的なのではなく、そもそも日本人の平均的な認識が甘いだけだとは思うんですが。※全体が酷いという話であって、オタク業界が酷くないという話ではない)


これは別件の時に見かけた、アメコミファンのかたのtwですが。



こういう事を書くと「なんでも欧米基準に合わせればいいってもんじゃない、日本には日本独自の文化や感覚がある」という人がいますが、少なくともジェンダー関連に関しては、不満に思っている人が“日本人の中にも”一定数いる(のに作り手が理解してなくて対応しきれてない)のでは?という話なんですよ。だからこそ「アナと雪の女王」があれだけのヒットしたんじゃないのかな?


あと「ベイマックス」「パシフィック・リム」「GODZILLA」(レジェンダリー版)などの、外国製クール・ジャパン作品を見ててちょっと思ったんですが(以下、一部の作品のネタバレになりますが)これらって「特攻(自己犠牲)を肯定しない」という共通項があるように思いました。主人公達はあくまで自分も含めて生き残る為に行動している。もちろんヒーローとして究極的には他人の為に自己を犠牲する覚悟はあるんでしょうけど、自分の命を諦める一線がかなり高めに設定されていて、ハッピーエンド志向もあるのでしょうか、(ドラマを盛り上げる為に)安易に自己犠牲にロマンを託すような演出が避けられているように思いました。個人的にはそういう所も好きですね。


見終わって見ると、内容的に確かにあの感動推しの宣伝戦略は間違ってはいないなーとも思いましたが、だが!私としては!あの宣伝では興味を持たないであろう、男児向け作品ばかり愛好しているタイプの女児にこそ「ベイマックス」を見てほしい!彼女たちにこそこの作品を届けたい!だからやっぱりあの宣伝は、駄目!

越前リョーマは二度死ぬ。「ミュージカル『テニスの王子様』2ndシーズン 全国大会 青学vs立海」

公演の表記ルールがいまだによく分かっておりません。これで合ってる?

死と再生

全国大会立海戦は、リョーマが記憶を失う→かつて対戦した相手との練習試合を通して徐々に記憶を取り戻す→幸村戦。
という流れなのですが、記憶を失うシーンで、「溺れる→リョーマが胎内で聞いた両親の会話が聞こえてくる」という原作にはない演出が入ります。これはあきらかに擬似的な死を示しており(映像として胎児のように丸まっている姿が映し出される)、そこからの、生まれ直し、生き直し(ライバルズとの試合)を経て神の子・幸村に勝利する…という、原作の神話的な展開をさらに強調する演出です。
しかしそうして体得し直したものを天衣無縫でふたたび手放す訳で、そうなると天衣無縫も擬似死的システムにも思え、死と再生というモチーフ自体は珍しくないですが、一つの作品で二度死と再生を繰り返すとなると、なにこれリョーマくんオオクニヌシオオクニヌシなの?と思いながら見ていました。
天衣無縫でまっさらになった状態で「卒業」というのは役者さんたちにとって、とても健全で美しい話であります。

とはいえ、許斐先生は自我やアイデンティティといったものを根本的に信用していない気配があり、記憶喪失というのも本来はその文脈なんだろうなと思います

テニプリのルール

おそらく許斐先生の根っこに個人の意識といったものへの疑念がある。先天的に個性が備わっていてそれが花開くのではなく、空っぽで生まれた所に経験や体験といった外部からの情報の流入・積み立てで出来上がっているのが(現在の)自分という認識なのではないでしょうか。
入れ替わりや仮面ネタの多用、無我の仕組み*1やネーミングなどから、人の個性というものを絶対視していないことが窺え、一方で事態を打開するのは「体が覚えている」という経験で培われた身体感覚です。
少年マンガ的にポジティブにいうと「過去の自分にこだわらない/変わる事を恐れない」といった感じでしょうか。そして「それまでの自分に執着せず、外部の影響や経験を糧に自己を更新していく作業が繰り返される」のがテニプリという世界の基本理念です。
だから、身体感覚を切り離し、体験の機会を奪い、どんなテニスでも返してくる(=これまでの経験を否定する)幸村さんがラスボスなのだし、彼の病が「体の感覚がなくなる」というものなのも、根本に同じ発想があります。そしてずっと“普通の”やり方で打球を返して来た幸村さんが、サムライドライブに対応するために分身というらしからぬ技で対応して、自分を更新したところで物語は終わります。
テニプリで描かれているのは基本的に「(それまでの)自分との戦い」です。

というような事を考えててふと気づいたんだけど、これってそのまんまテニミュの構造じゃんね。テニプリの理念をいろんな面で実体化しているのがテニミュなのだというか。

全国立海公演

2ndシーズンはテンポを詰め手数勝負という路線なので(参考:http://d.hatena.ne.jp/chili_dog/20140716)、どうしても重厚感が出しにくく、その弊害が立海に出てしまう。全国立海の初見時、立海が全体的に迫力不足で、「今回は2ndのラストというより、小越リョーマの集大成として見るしかないかなー」というのが正直なところでした。
地方には行かないので、だいたい最初の東京公演と凱旋公演を見るという行動パターンなのですが、東京凱旋公演で二ヶ月ぶりにお目にかかったら、幸村・リョーマ戦がもう見違えるように素晴らしくなっていた。
今の曲調とテンポで重厚感が出しにくいというのは立海に限らず全体がそうで、手数の多さと引き換えにひとつひとつが「軽い」のも事実。しかも2nd中、速度は上がるいっぽうだったので、このバランスのまま、(よくも悪くも)「軽さ」も2ndの特長としてシーズンを終えるんだろうなと思っていたら、凱旋に至って小越・神永は手数とテンポを殺さないままに重さを得ていました。幸村さんは見違えるように強く美しく、威厳があった。小越リョーマと相対してまったく頼りないところがない。
ほとんど出来上がってて相対的に変化(成長)が見えにくいというのが最近の小越さんの印象だったんですけど、彼も、特に幸村戦の所からぐっと芝居が深くなっていた(その前の、記憶を取り戻す過程の演技や身体コントロールの繊細さを手放さないまま、あの深さに到達したのが素晴らしい)。
さらに後日改めて行ったら、幸村さん以外の立海メンバーまでみんな重厚感を身につけていて!曲や演出が想定してる作品全体の雰囲気や方向性とのバランスがギリギリって感じでしたが、2ndシーズンは最終的に演者の成長によって作り手の意図を超えるところに到達して終りました。
作品のテーマを体現する素晴らしいものを見られたのだなあ、という感慨と満足感。

みんな、楽しんでる?

構成が違うからストレートに比較はできないんだけど、小越さんが記憶を取り戻す過程で笑顔を、楽しさを前面に出してるのは龍輝くんの大きな違いだなあと思いながら見ていました。
「思い出せ越前」で小越さんがニコニコと楽しそうなのがとても印象的で、でも思い起こせば全国氷帝跡部戦でも金ちゃんとの一球勝負でも彼は楽しそうだった。最後までの流れを踏まえて芝居を作っていたのか、それともずっと彼自身が楽しかったのか。
そして日に日に強くなっていった、ラストの「楽しんでる?」というセリフ。あれが大好きでした。感動もあるんだけど、何より楽しさをくれる。「楽しんでる?」という問いかけに毎回、なんのためらいもなく頷くことが出来た。いついかなる時も「楽しかった」という気持ちを抱いて会場を出る事が出来るのが、テニミュの好きなところです。

*1:「歴代の対戦相手の技を繰り出す」というのは「経験の蓄積によって現在の自分が出来上がっている」という状態の比喩です

「浮世絵化したミュージカル」としてのテニミュ

日本のポップミュージックはどんな進化を遂げたのか。一言でいうなら、情報量が多くなった。つまり、メロディーや曲展開がすごく細密化・複雑化した。どんどんそういうモノが受けるようになった。

『浮世絵化するJ-POPとボーカロイド 〜でんぱ組.inc、じん(自然の敵P)、sasakure.UK、トーマから見る「音楽の手数」論』


この記事を読んで連想したのはテニミュの事でした。
テニミュ=「ミュージカル テニスの王子様」はWJ連載のマンガ「テニスの王子様」を原作とするミュージカルのシリーズです。原作を最初から最後まで順番に舞台化し一度完結を迎え(=1stシーズン)、ふたたび頭から舞台化し直しています(=2ndシーズン)。いままさに2ndシーズンの完結編となる公演の真っ最中です。

1stから数えて10年、時期によって作風の差は多少あるのですが、ほぼ一貫して進んで来たのがダンスの高度化と思われます。1st 後半から目に見えてダンスが難しく運動量も多くなり、2nd シーズンはそれに拍車がかかりました。音に対して振り付けが増え、必然的にひとつひとつの動きが早い。1st後半と比べても公演トータルの運動量が桁違いに増えていて、「手数が多い」という表現がしっくりくる感じです。

テニミュが従来のミュージカル好きから異端視されがちなのは、マンガ原作だとか出演者が若い男子に偏っているといった部分ではなく、音楽面ではないかと思います。テニミュの音楽はポップスがベースです。オペラ(→オペレッタ→)ミュージカルという流れで生まれたジャンルなので、ミュージカルの曲調や歌唱法はクラシック・声楽的なものが正統/本格的なものという見方が強い。ミュージカルの要素は歌・ダンス・芝居とも言われますが、歌が重視されダンスの要素はきわめて薄い作品も珍しくありません(そちらのほうがありがたがられてる感じもあります)。劇団四季などは割とダンサブルだし、ポップスやロックの音楽のものもありますが、歌唱は声楽的です。声楽的な歌唱で朗々と歌ってるのを聞くのがミュージカルの醍醐味、という人にとって、ポップスの曲を普通のポップス的な歌唱法で歌うテニミュはたしかに魅力がない。

しかし、曲調も歌唱法もクラシック・声楽ベースではない路線を選択した事で、最近のJ-POP的な高速化・手数の多い音楽に対応する形でダンスが進化したわけです。これは出演者が若い(男)子だからこそ可能だったともいえるし、若い(男)子だけでやる意義がある演目になっているともいえる。

「浮世絵化したミュージカル」

世界的なミュージシャン二人がこう語るのを聞いて、ふと思いついた。精巧で、細密で、手数が多くて、カラフルで、日本独自の進化を遂げたもの。これって浮世絵みたいなものなんじゃない?
『浮世絵化するJ-POPとボーカロイド 〜でんぱ組.inc、じん(自然の敵P)、sasakure.UK、トーマから見る「音楽の手数」論』

今年、「日本2.5次元ミュージカル協会」というものが出来ました。テニミュが切り開いた、マンガ・アニメ・ゲームなどを原作とするミュージカルが「2.5次元ミュージカル」と総称されていたところ、それを日本独自のものとして世界にむけて発信する為の協会との事です。発足時の関係者の発言で「2.5次元ミュージカルは日本独自のもの」というものを何度か見ました。私は当初それを、日本のマンガやアニメが原作だから(=ストーリーやキャラクター面での独自性)という意味と受け取っており、当たり前すぎてそれってわざわざ言及することかしらと思っていました。ですが、「浮世絵化したJ-POP」という論を見て、それだけじゃないと思いました。

情報量が多く、細密化・複雑化した浮世絵的J-POP。それを音楽とダンス面で体現している、いわば浮世絵化したミュージカルがテニミュなのでは、と。2.5次元は(少なくともテニミュは)「ミュージカルとしての」独自性がある、そういう事なんじゃないでしょうか。

この喩えがいちばん相応しく伝わりやすいと思います。アメコミやBDと日本のマンガが違うように、欧米系の昔からあるミュージカルとは別の価値観、別の評価基準、別の表現技法として2.5次元ミュージカルがある。そしてその総本山かつ最も先鋭的なものがテニミュである、と。

アナの魔法を解いたのはだれか?「アナと雪の女王」

感動のあまり泣きすぎて頭痛になった私ですら引くレベルで爆ヒット中の「アナと雪の女王」ですが、感想などを見て回っていると、作中のある部分を誤解している人がちらほら。テーマがどうメタファがどうといった解釈に関する事ではなく、ある出来事の主体がだれか、という単純な事実についての誤解です。オチに関わる部分なのでそこは具体的に言及してない人も多く、誤解している人がどれくらいいるかはっきりわかりませんが、twitterでその話をしたら「言われてみると確かに」という感想を複数貰ったので、誤解している人は一定数いると思われます。テーマや解釈についてはすでに語られまくっているので、ネタバレの上でその出来事にしぼって説明しようと思います。


【ネタバレだよ!】

問題の箇所はラスト、大オチです。
完全に氷となってしまったアナを抱きしめエルサが悲嘆にくれていると、魔法がとけてアナが息を吹き返します。ハッピーエンド。
トロールに「真実の愛が魔法をとく」と説明され、愛を求めてアナとクリストフは行動を起こしていたのですが、さて、ラストでアナの魔法を解いたのは誰の、誰への愛なのでしょうか。「エルサの、アナへの愛」と思っている人がいますが、間違いです。
ただしくは「アナの、エルサへの愛」。
魔法をとく鍵は字幕だと「真実の愛」となっているのですが、英語では一貫して「An act of true love」*1。と言っています。トロールの説明は「An act of true love will thaw a frozen heart.」だからそれを聞いたアナ達は「愛ゆえの行動?→キスすればいいのかな?」と思ったわけです。
で、クライマックスの場面でactionを起こしたのはアナのほうです。アナに助けられ、泣いていたあの場のエルサは「An act of true love」の主体ではありえない。

アナの魔法が解けたのを見てオラフがあらためて「An act of true love will thaw a frozen heart.」というのですが、ここはおそらく二重の意味があり、ひとつは「魔法で凍った(アナの)心がとけた」という起きた出来事そのままの意味。あともうひとつは「閉ざされていたエルサの心がとけた」という隠喩。

(原作を踏まえると「アナの愛によってエルサの心がとけ、それに伴ってアナにかかっていた魔法もとけた」という解釈も可能ではあるのですが、私はアナを溶かしたのはあくまでアナ自身の行動であり、妹の行動によってエルサが自己肯定感を得て、能力のコントロール法を会得した、という流れだと思っています。アナの魔法がとけた後にエルサがあらためてアレンデールを覆っていた氷を溶かしているからです)

8/11追記
小説版をよんだところ、アナの魔法を解いたのはなにか(誰か)&エルサが能力をコントロール出来るようになった流れについて、地の文で野暮なくらいはっきりと記述があり、上記の通りでした。「An act of true」をきちんと訳出している箇所もあります(日本語としてぎこちなくなるので一部でしたが)。大人ならすんなり読める分量ですし、一度目を通すとこの物語のテーマがクリアになると思います(なんならクライマックスの部分だけでも)。


2015/03/07追記
※アナ雪の小説が二種類出ている事に最近気づきました…。私が読んだ、ラストの展開がクリアに書いてあるのは偕成社から出ている渋谷正子訳のほうです。

アナと雪の女王 (ディズニーアニメ小説版)

アナと雪の女王 (ディズニーアニメ小説版)

アナと雪の女王」の描く愛

アナと雪の女王」は恋愛否定だ、男より家族愛かという言い方もされますが、それも少し違うと思います。クライマックスのアナはクリストフのほうに駆け寄ってキスをして貰えば助かる(と、あの時点で彼女も観客も思っている)けれどそれを待っていたらエルサが殺されてしまう(そしてエルサを助けに行ったら完全に氷化するだろう)という状況なので、あそこは「クリストフよりエルサを選んだ」のではなく「自分の命よりエルサを選んだ」と表現するほうが正確。
魔法が解けた直後、エルサは「...You sacrificed yourself for me?」と聞き、それに対してアナは「I love you.」と返しています。エルサを愛してるから自分を犠牲にしたのよ、という事です。
暖炉のシーンでオラフは「Love is...putting someone else’s needs before yours」(愛とは自分より誰かを優先すること)「Some people are worth melting for.」(君の為ならとけてもいい)と言っています。要するに本作における愛とは自己犠牲/無私/献身といったものであると、クライマックス直前に強調されています(字幕だけ追っていて英語には意識がいっていなかったとしても、これらオラフのセリフが伏線となって、テーマを、誰の愛が魔法をといたのか、導き出すことは一応出来る作りになっていると思うのですが…)

まあ命までかけずとも、「An act of」と執拗に繰り返しているところを踏まえると、「愛とは(我が身を省みず)だれかのために行動すること」くらいでしょうか。愛とは受けとるものではなく、与えるものであると。ちなみにこのモチーフは「プリンセスと魔法のキス」「ラプンツェル」でも描かれていました。
今作は献身の対象が恋人ではなかったのが大きな特徴なのですが、恋愛否定というほどの強さはなく、せいぜい「真実の愛とは恋愛関係間に限ったものではない」くらいだと思います。アナとクリストフは一応カップルになっているわけですから。とはいえ、スケートリンクでアナとエルサがきゃっきゃっしてるとカメラが引いていく、という終わり方にはちょっと笑ってしまったのですが。かわいそう!クリストフかわいそう!

アナと雪の女王」はストーリーがない?

「映像と音楽はすごいがストーリーが…」という意見もよく目にします。「ストーリーがない」とまで言う人も。当初はジェンダー/セクシュアリティ的な部分がピンとこないとそういう感想になるのかなと思ったのですが、ラストの展開を誤解してる人の存在を知り、ふと思ったのですが、もしや「ストーリーがない」派はただ単にラストの展開を勘違いしてそう思っているだけなのでは…?
アナの魔法をといたのがエルサ(の愛)だと思ってしまうと、具体性を欠いた、ふわふわした話になってしまうんですね。「とにかく愛(=気持ち)さえあればなんでもできる」みたいな。献身というラストの展開に対して「ありきたり(新規性がない」)」「王道」ならまだしも、「ストーリーがない」とまで言われるのは違和感があったのですが。そう考えると腑に落ちるのですが…どうなんでしょうか、その辺?

「An act of true love」

字幕にしろ吹き替えにしろ翻訳には制限があって大変な事は百も承知ですし、今回の記事を書くにあたり自分でも考えましたが「An act of true love」をスマートな日本語に訳すのは確かに難しい。しかし作品のテーマの根幹にかかわるところですし、前後のセリフなどでフォローを入れるなりして、もうちょっとわかりやすくしてもよかったんじゃないかなあ…という気がします。

*1:吹き替えでどうなってるか不明