越前リョーマは二度死ぬ。「ミュージカル『テニスの王子様』2ndシーズン 全国大会 青学vs立海」

公演の表記ルールがいまだによく分かっておりません。これで合ってる?

死と再生

全国大会立海戦は、リョーマが記憶を失う→かつて対戦した相手との練習試合を通して徐々に記憶を取り戻す→幸村戦。
という流れなのですが、記憶を失うシーンで、「溺れる→リョーマが胎内で聞いた両親の会話が聞こえてくる」という原作にはない演出が入ります。これはあきらかに擬似的な死を示しており(映像として胎児のように丸まっている姿が映し出される)、そこからの、生まれ直し、生き直し(ライバルズとの試合)を経て神の子・幸村に勝利する…という、原作の神話的な展開をさらに強調する演出です。
しかしそうして体得し直したものを天衣無縫でふたたび手放す訳で、そうなると天衣無縫も擬似死的システムにも思え、死と再生というモチーフ自体は珍しくないですが、一つの作品で二度死と再生を繰り返すとなると、なにこれリョーマくんオオクニヌシオオクニヌシなの?と思いながら見ていました。
天衣無縫でまっさらになった状態で「卒業」というのは役者さんたちにとって、とても健全で美しい話であります。

とはいえ、許斐先生は自我やアイデンティティといったものを根本的に信用していない気配があり、記憶喪失というのも本来はその文脈なんだろうなと思います

テニプリのルール

おそらく許斐先生の根っこに個人の意識といったものへの疑念がある。先天的に個性が備わっていてそれが花開くのではなく、空っぽで生まれた所に経験や体験といった外部からの情報の流入・積み立てで出来上がっているのが(現在の)自分という認識なのではないでしょうか。
入れ替わりや仮面ネタの多用、無我の仕組み*1やネーミングなどから、人の個性というものを絶対視していないことが窺え、一方で事態を打開するのは「体が覚えている」という経験で培われた身体感覚です。
少年マンガ的にポジティブにいうと「過去の自分にこだわらない/変わる事を恐れない」といった感じでしょうか。そして「それまでの自分に執着せず、外部の影響や経験を糧に自己を更新していく作業が繰り返される」のがテニプリという世界の基本理念です。
だから、身体感覚を切り離し、体験の機会を奪い、どんなテニスでも返してくる(=これまでの経験を否定する)幸村さんがラスボスなのだし、彼の病が「体の感覚がなくなる」というものなのも、根本に同じ発想があります。そしてずっと“普通の”やり方で打球を返して来た幸村さんが、サムライドライブに対応するために分身というらしからぬ技で対応して、自分を更新したところで物語は終わります。
テニプリで描かれているのは基本的に「(それまでの)自分との戦い」です。

というような事を考えててふと気づいたんだけど、これってそのまんまテニミュの構造じゃんね。テニプリの理念をいろんな面で実体化しているのがテニミュなのだというか。

全国立海公演

2ndシーズンはテンポを詰め手数勝負という路線なので(参考:http://d.hatena.ne.jp/chili_dog/20140716)、どうしても重厚感が出しにくく、その弊害が立海に出てしまう。全国立海の初見時、立海が全体的に迫力不足で、「今回は2ndのラストというより、小越リョーマの集大成として見るしかないかなー」というのが正直なところでした。
地方には行かないので、だいたい最初の東京公演と凱旋公演を見るという行動パターンなのですが、東京凱旋公演で二ヶ月ぶりにお目にかかったら、幸村・リョーマ戦がもう見違えるように素晴らしくなっていた。
今の曲調とテンポで重厚感が出しにくいというのは立海に限らず全体がそうで、手数の多さと引き換えにひとつひとつが「軽い」のも事実。しかも2nd中、速度は上がるいっぽうだったので、このバランスのまま、(よくも悪くも)「軽さ」も2ndの特長としてシーズンを終えるんだろうなと思っていたら、凱旋に至って小越・神永は手数とテンポを殺さないままに重さを得ていました。幸村さんは見違えるように強く美しく、威厳があった。小越リョーマと相対してまったく頼りないところがない。
ほとんど出来上がってて相対的に変化(成長)が見えにくいというのが最近の小越さんの印象だったんですけど、彼も、特に幸村戦の所からぐっと芝居が深くなっていた(その前の、記憶を取り戻す過程の演技や身体コントロールの繊細さを手放さないまま、あの深さに到達したのが素晴らしい)。
さらに後日改めて行ったら、幸村さん以外の立海メンバーまでみんな重厚感を身につけていて!曲や演出が想定してる作品全体の雰囲気や方向性とのバランスがギリギリって感じでしたが、2ndシーズンは最終的に演者の成長によって作り手の意図を超えるところに到達して終りました。
作品のテーマを体現する素晴らしいものを見られたのだなあ、という感慨と満足感。

みんな、楽しんでる?

構成が違うからストレートに比較はできないんだけど、小越さんが記憶を取り戻す過程で笑顔を、楽しさを前面に出してるのは龍輝くんの大きな違いだなあと思いながら見ていました。
「思い出せ越前」で小越さんがニコニコと楽しそうなのがとても印象的で、でも思い起こせば全国氷帝跡部戦でも金ちゃんとの一球勝負でも彼は楽しそうだった。最後までの流れを踏まえて芝居を作っていたのか、それともずっと彼自身が楽しかったのか。
そして日に日に強くなっていった、ラストの「楽しんでる?」というセリフ。あれが大好きでした。感動もあるんだけど、何より楽しさをくれる。「楽しんでる?」という問いかけに毎回、なんのためらいもなく頷くことが出来た。いついかなる時も「楽しかった」という気持ちを抱いて会場を出る事が出来るのが、テニミュの好きなところです。

*1:「歴代の対戦相手の技を繰り出す」というのは「経験の蓄積によって現在の自分が出来上がっている」という状態の比喩です