身体で見せる、身体性をつなぐ「ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン 青学vs不動峰」

エンディング

テニミュには本編・カーテンコールの次にエンディング曲というものがあります。カーテンコールの後なので、さていま目の前にいるのは役(キャラ)と素の役者さんどちらなのだろう、といつもちょっと不思議に思いながら、きゃっきゃっと見ているのですが、2ndシーズン後半はキャラクターとしてのコール&レスポンスが入ったので、(やや役から逸脱する部分もあるけれど)基本的には役なのだろうと思ってみていました。ところが今回の公演では、コールはあるもののキャラクター性は薄めで、どうやらEDは役から離れていいらしい。何故そう思ったかというと、本編中とガラっと違う踊りかたをしている人が多いからです。


ミュージカルですから、歌も踊りも芝居の一環、役者本人が歌い踊るではなく、「この役だったらこういう感じで歌い、こう踊る(動く)だろう」というものが要求される。それが本来の筋ですが、通常の芝居の場の立ち居振る舞いは出来ても、歌とダンスまで演技性を徹底させるのはなかなか難しい。
もともと2.5次元舞台は“原作通り”が身上です。原作の漫画を参照する以上、このセリフをいう時の表情はこう、立ち姿はこう、というのがあり、役者に渡される脚本に文字として書いていなくても、立ち居振る舞いまで具体的な指示があるに等しい。コマとコマの間の動きや原作に描写されてない部分の立ち居振る舞いがアニメ版をあればそちらを参照する人もいます。そこに歴代キャストの動き方の癖も蓄積され、「この役はこういう風に動く」という、いわば動作におけるキャラクター性・演技性が、なんとなくの型としてある。一方で、2ndシーズンを通して歌曲は高速化・緻密化の一途をたどり、ダンスにおける個々のキャラクター性・演技性はあまり前面に出ませんでした。
J-POPの流行と並走していたような高速化自体は、音楽的な、つまりミュージカルとしての独自性でもあったし、群舞としての迫力があり、大好きなのですが、果てしなく高速化出来る訳もなく。そろそろ人類が二時間の舞台としてこなせる限界だろう(見る方の目も追いつきません)、3rdがあったとしてどうするつもりのかなー、とは2nd終盤から気になっていた所でした。

今回の特徴

そしてはじまった3rdシーズン。過去の曲も使われているので特に青学関係は(2nd後半と比べて)ゆったりめですし、身体能力が高いのか、「各々の役としての動き」の蓄積を咀嚼するセンスのある人が多いのか、「キャラクターらしく動く」が芝居や試合のシーンはもちろんダンスにおいてもかなり徹底されている。
一方、初見時にぎょっとしたのですが、今回、誰がテニスの王子様なのか名指しするセリフがありません。他の青学メンバーに関しても、かろうじて名前と基本設定を紹介する曲はありますが、校内ランキング戦がカットされています。

つまり、今回の公演は
・キャラクターを描写するセリフやエピソードが削られ
・動作・ダンスにおけるキャラクター性・演技性が全般的に高く
・カーテンコールやEDでの立ち居振る舞いとの落差から、「本編中は演技として動いてる」ことが強調されるつくり
となっている。

どこまで意図か断言は出来ませんが、今回の公演では、脚本ではなく、動作を通したキャラクター描写がなされていた、と表現する事が出来るのではないか。少なくとも観客としてはそこからキャラクターを読み取るしかなかったし、一方でその為の材料はよく提示されていた。
中盤に2nd的な高速曲はいくつかありましたし、高速路線をまったく手放した訳ではないでしょうから、今後は楽曲における演技性と高速化の両立もしくはバランスの良い落としどころを探っていくのではという気がします。

キャストの交代にまつわること

先天的に個性が備わっていてそれが花開くのではなく、空っぽで生まれた所に経験や体験といった外部からの情報の流入・積み立てで出来上がっているのが(現在の)自分という認識なのではないでしょうか。

入れ替わりや仮面ネタの多用、無我の仕組みやネーミングなどから、人の個性というものを絶対視していないことが窺え、一方で事態を打開するのは「体が覚えている」という経験で培われた身体感覚です

http://d.hatena.ne.jp/chili_dog/20141005#p1


テニプリという世界を支える理屈を私はそう捉えているのですが、困ったことにこの思想とキャストの交代というのが馴染まない。代替わりという形で直線的に引き継ぐならまだしも、Wキャストなどで一つの役に対してキャストが同時に複数存在する事は、原作のテーマとズレてしまう。そこで2ndシーズンは基本的にシングルキャスト、かつ極力キャストの交代はなし。特に「体が覚えている」を理由に最終戦に勝利する主人公・リョーマを4年間一人の人間に託す事で原作のテーマとミュージカルのありかたを一致させたのですが、しかし今後も同じやり方が取れるとは限らない。

橋本治は「少年漫画には心理がない」と言いました。心理がないから少年漫画のキャラクターとは外見そのものでしかなく、ゆえに着替えない、決まった衣装しかないのだ、と。心理がないとまでは思いませんが、テニプリにおいてキャラの意識や内面といったものは重視されておらず、ゆえにキャラクターを体現するにあたり「外見上の、表面上の一致」が持つ意味は小さくない。そして自己同一性を裏打ちするのが身体感覚である以上、この場合の「外見・表面」に、容姿や体型のみならず「動き方」も含めようという発想は正しいように思われます。「動き方を似通わせる」事が、舞台上において「経験による身体感覚の蓄積」の(擬似的な)表現になりうるのではないか、という。

知ってるかい?

2.5次元の「外見がそっくり」という特徴を「動作レベル=身体表現としてのキャラクター性・演技性を高める」という方向でも押し進めること。それにより身体表現によるキャラクター描写の成立を目指すこと。そしてこの先にある可能性として「身体性を媒介にすることで、キャスト交代で生じるテニプリのテーマとの齟齬を擬似的に解決すること(齟齬を軽減すること)」。それが今回の不動峰公演で、私の目に映ったものです。


その意味において、古田一紀は芝居がうまい。役として動き、それは試合でもダンスでも維持され、しかも動きに感情が乗っている。楽しいのか、困っているのか、悔しがっているのか、動きを見れば分かる。リョーマらしく動きながら、それがただの段取りにならず、そこに感情がある。演技として、動作ひとつひとつにその都度感情が宿っている。

古田一紀の小さな体にはテニミュのこれまでとこれからの可能性が詰まっている。セリフやエピソード以外の形でそれは舞台上に表現されていて、この公演を見た私は知る事になる。なるほど彼はスーパールーキーであり、新しいテニスの王子様なのだと。