2.5次元という非近代「ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元」


矢内賢二(芸能史)、西田シャトナー(演出家)、小柳奈穂子(宝塚の演出家)が、それぞれの表現で、おそらく共通する事を述べています。

江戸時代の歌舞伎では、原則として戯曲よりも役者が、物語の合理性よりも個人の得意芸を引き立てることの方が優先された/文学的価値を犠牲にしても、芸能としてはその方がうんと魅力を増す/実はこれは「演劇鑑賞」とは筋合いの異なる、極めて伝統的な「芝居見物」の方法なのである。
「隈取のようなもの」矢内賢二

おそらくテニミュ以前の二、三十年の間、観客は映画や小説といったほかのジャンルとの違いが不明瞭になっていく時代へと進んでいた。小劇場にしても、「作家」の作品を観にいくという感覚になっていたんじゃないかと思います/(テニミュは)観客と俳優のつながりにおいてこれまでほぼ失われていた土壌をもう一度耕しなおした/いうなれば、演劇作品の文学的要素というのは必ずしもテキストのなかにはないということを体現できつつある
「コロスの響くロードレース」西田シャトナー

演劇はそもそも二・五次元なんじゃないかと思うんです。ギリシャ悲劇にもシェイクスピアにもまったくのオリジナルはない。みんなの知っている神話や伝説、あるいは民間伝承のような当時のサブカルチャーを舞台化している/オリジナルの演劇というのは二〇世紀以降の産物なんですよ 
「〈宝塚〉という世界線」 小柳奈穂子

それぞれバックボーンが違うので、背景となる知識、想定してるものに差異もあるでしょうが、引用した部分以外の内容も含めて、お三方の話を私の理解でまとめるとこんな感じでしょうか。「戯曲を基盤にした物語が、内面のある人物像が、リアリズムベースの個人の演技術によって演じられるのを鑑賞するというのは“近代演劇”の考えであって、絶対的なものではない」そして2.5次元は近代演劇とは異なるルールに則って出来ている、と。

2.5次元2.5次元というジャンルであって、“普通の*1演劇”とどう違うか、というところを考えないといけない。ジャンルが違うというのは、評価基準が、価値基準が違うということです。
役者の演技は拙いが、と添えながら2.5次元の特徴を述べている論考もあるのですが、違うと思っています。技術はジャンルに依存するもので(歌舞伎や宝塚で達者な人がそのまま近代演劇をする事は出来ません。ドラマや映画畑の俳優さんの吹き替えに違和感を覚えた人は少なくないでしょう)、2.5次元というジャンルの中で必要とされ、評価される技術というものがあり、2.5次元で活躍してる人たちはそれを備えている。その中での巧い下手はありますが。

私が2.5次元舞台を実際に見るようになってびっくりしたのはものすごくテクニカルな世界だった事です。
舞台を見ていても分かるし、ユリイカの役者さんのインタビューで具体的に言及されていますが、カツラやメイクと いった容姿レベルだけではなく、キャラクターの表情、仕草、体の動かし方、アニメ版の声優さんの喋り方まで参考して演技を作り込んでいる。内面を捉えていれば表面にあらわれるものが多少違っても、という発想ではなく、とにかく原作にある情報はすべて限り取り込み可能な限り再現を試みる。そこまでの作り込みが当然の基本で、さてそこからどうするか、というのが2.5次元の世界です。
そしておそらく戯曲・物語や人物の内面を重視する近代演劇の思想では、この表層の作り込みに価値を見いださない。演劇に必要な技術と認識しない。そういう、価値観、評価基準の違いがある、というだけです。




以前にこう述べた事があるのですが。

向こうから発せられる「これが自分の解釈です」という自意識=作為を一方的に受け止めるよりも、隠そうとして隠しきれないものがうっかり垣間みえてしまうほうが、垣間みえる瞬間に立ち会ってそれを感知するほうが、スリリングで、色っぽくて、私は楽しいのだ。

*1:現在一般的に『演劇』と言われるような