評論の意義

本当に優れた第一次作品そのものは、それまでの作品への批評になってないとおかしい。「新しさ」とは今まであった何か全部を知らないと作れない。今まであったすべてを把握した上で、「今ここに新しいものが出来ました」という事の評価なわけ。評論の仕事って何かというと、ただの感想じゃないんですよ。次に新しいものを産む為の起爆剤なんですよね。俺はこれ学者のプライドとして言いますけど、まだ創世記なんで学問として新しい提言とか出来ませんけど、それでもデータ上から出てくる、まだないお笑いっていうのはあるんですよ。そういう作業をしてこそ評論の本懐、学術の本懐。

(最近は本を読まずに小説を書く人とかも多いけれど)評論の本懐っていうのは「これ無いよ今まで」っていうのを見つける作業なんすよ。で、見つける作業ってのが新たに作り出す作業に繋がっていないとおかしい。おれはお笑いを語る時には常にそういう目線でありたい。
「こうすればもっと良くなる」っていう提言でなきゃいけない

東京ポッド許可局【第154回“お笑い批評”論 後編 】

評論自体も一つの作品である、とは思っていたけれど、その存在意味について考えた事がなかった。多様な解釈、もしくは基本的な解釈を提供するもの程度に漠然と思っているだけだった。
評論についてといえば、ポッドキャスト内でも触れられていた町山さんのイベントがあったけれど、あちらは「評論のすべき基本的な事(が最近はまったくおろそかにされている)」についてで、こちらは評論の意義について、という感じかな。許可局の人たちが言っている事というのも一つの「評論“観”」、評論に関するアングルの提示ではある、と言う事も出来るのだけれど。町山イベントとの関連でいえば、「(お笑い研究には)先人の戦いの積み重ねがある。僕はその積み木の一つを積み上げているつもりだし、その作業を一生かけてやっていくつもりだし」というタツオさんの発言には、町山さんが引用されてた「でも、やるんだよ」の精神*1を感じました。これはまあ、余談として。

サンキュータツオ渾身の「だが断る!!!」には爆笑しました。ネタ半分、本気半分という口調で、ここ2回の趣旨を体現する白眉の一言。

*1:自分から義務と覚悟を背負うこと